【JR西日本】福知山線脱線事故 Part2 背景と経過

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事故

JR西 福知山線脱線事故について考察していた頃の記事をまとめましたので紹介します。


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事故の背景

背景

JR西日本は、並走する私鉄との競争など、営業上の理由から運転時間の短縮を図っていた。宝塚駅~尼崎駅間の運転時間(基準運転時間+停車時間)の16分25秒は、1999年3月時点の時間から2002年3月に20秒、2003年3月に20秒、2004年10月に10秒と3回にわたり合計50秒短縮された結果であった。このため、定刻どおり運転することが非常に難しいものとなっていた。このことは、快速列車5418Mも事故前平日65日間の半数以上の日に1分以上遅延して尼崎駅に到着していた事実からも伺える。

事故の経過

 JR西日本の宝塚駅発同志社前駅行きの上り快速列車(7両編成)が、福知山線の塚口駅から尼崎駅間の半径304mの右曲線を走行中、先頭車両が左へ転倒するよう脱線し、続いて2~5両目が脱線した。先頭車両は、線路東側のマンションに激突した。死者107名、負傷者562名の大惨事となった。運転士が車掌と総合指令所との会話に気が取られ(推定)、ブレーキのタイミングが遅れ、曲線部の制限速度70km/hを46km/hも超える約116km/hで突入したため、曲がりきれず脱線した。

詳しい経過

JR西日本の宝塚駅発同志社前駅行きの上り快速列車5418M(7両編成)は、伊丹駅に到着時、70mのオーバーラン(正規の停車位置を越える運転ミス)を起こした。列車は停止位置を修正し、乗客の乗り降りを終えて、9時16分10秒ごろ約1分30秒の遅れで出発した。

伊丹駅を出発した後、車掌が次の停車駅を告げる社内放送を行った。そのとき、運転士から「まけてくれへんか」(伊丹駅でのオーバーランの距離を小さく報告して欲しいとの意味)との車内電話があり、車掌はこの依頼を了承した。車内電話で話している最中に、1人の乗客が車掌室の窓をたたき「遅れているのに、あやまらんか」と述べた。車掌はお詫びの車内放送を行った。運転士は列車無線を使って、列車の総合指令所に報告を行った。

運転士は列車を加速した。制限速度の120km/hを超えたため、列車の加速を止めるため軽くブレーキ(B1)をかけた。

9時18分01秒車掌は列車無線で総合指令所と連絡を取った。
9時18分06秒車掌は列車無線で総合指令所と連絡を取った。
9時18分12秒指令所「5418M車掌、内容どうぞ」
9時18分14~26秒「えー、行き過ぎですけれども、伊丹駅到着時に後部限界表示およそ8m行き過ぎて1分半の遅れで出発した」と報告した。
9時18分38秒指令所「何分でしょうか。どうぞ」
9時18分40秒車掌「あ、1分半です。どうぞ」
9時18分42秒指令所「1分30秒遅れ。えー」 この時点では、列車は上り第4閉そく信号機付近を通過しており、速度90km/hでのブレーキ初速であったが約120km/hを保ったままであった。
9時18分47~53秒指令所「えー、それでは替わりまして、再度、5418M運転士応答できますか。どうぞ」
9時18分51秒初めてブレーキをかけ始めるが、54秒には、先頭車両が左へ転倒するよう脱線し、線路東側のマンションに激突した、続いて2~5両目が脱線した。 死者107名、負傷者562名の大惨事となった。

また、JR福知山線列車脱線事故後の動きを下表にまとめた。

05年4月25日JR宝塚線塚口―尼崎間で快速電車が脱線。乗客106人と運転士が死亡。
 6月18日JR西日本が、初めて遺族・負傷者向けの説明会を開く。
6月19日宝塚線が運転再開。
9月6日国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が1回目の中間報告を公表。
9月25日事故現場近くで合同慰霊祭が営まれる。
10月23日JR西日本による2回目の遺族・負傷者説明会。安全対策の進展状況を説明。
12月27日JR西日本が垣内剛社長の退任を発表。
06年1月JR西日本が遺族・負傷者との「地区別懇話会」を各地で開催。
2月1日山崎正夫氏がJR西日本社長に就任。
4月25日事故発生1年の追悼慰霊式。
6月事故後に辞任したJR西日本の元役員らがグループ会社に「天下り」する。
7月29、30日JR西日本が遺族・負傷者向けの説明会。「天下り」の元役員らも出席
10月15日同居男性を事故でなくした女性がJRの対応に抗議する遺書を残して自殺。
12月20日事故調査委が事実調査報告書を公表。JRの企業体質の問題点を指摘。
07年2月1日調査委が意見聴取会を開く。JR西日本は報告書案に反論。
4月25日事故発生2年の追悼慰霊式
5月18日JR西日本が「天下り」元役員らの辞任を決める。
6月28日調査委が最終報告書を公表。「運転士の日勤教育への恐れが事故の誘因」と断定。

(朝日新聞 2007年8月4日 夕刊 11ページ 大阪本社 より引用)

6月28日の最終報告書が公表される前、山崎氏は旧国鉄OBの委員と会食するなどして報告書案のコピーを入手していた。事故現場へのATS整備に関する記述の一部を修正するように求めていた。この半年前に公表された報告書でも、同じ委員から事前にコピーが山崎氏側に提供されていた。また、同社の別の幹部も旧国鉄OBの委員と接触し、調査情報を聞き出そうとした。 という事故調の調査情報漏洩という問題も起きていた。

(2009年10月18日 朝刊85ページ 大阪本社 より引用)

今後、事故に関与した技術者・技能者および彼らがとった行動もまとめていこうと思います。

軌道 福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い

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